守銭奴と言われた人の行く末が気になる

船越英一郎さんと松居一代さんとの離婚が成立しそうだと報道された。
松居さんは船越さんの不貞を申し立て慰謝料を請求したかったようだが、共同財産分割をすれば松居さんから船越さんへ支払いをしなければならず、慰謝料請求を取り下げる代わりに財産分与の放棄をする、でカタをつけたようだ。

曰く「守らなければいけなかったのは、(不貞をされて傷ついたプライドより)、財産だった」と。
そうなのか?財産さえ守れば、彼女の未来は安泰なのか?

そもそもお金さえあれば、人は幸せになれるのか?を考えてみたい。

幸せはお金では買えない

人がお金にこだわるのは、お金という紙切れそのものに意味があるからだろうか?意味があるのならば、モノがない世界でお金を持っても幸せということになる。しかしモノがなければ、いくらお金を持っていようとも、それは紙以上の価値はない。

つまりお金というのは交換可能という自由度の高さを以て、価値が担保されている。
では、モノと交換できれば、幸せなのか?
不便を解消するという点においてはよき方へ転ぶかもしれない。お金がなれば味噌汁をすくうレードルを手にいれられず鍋から直接移すしかないが、お金があれば適量をこぼすことなく器に入れられる。ただしこれは便利というだけであって、幸せとは関係ない。

では、幸せとは何か?

幸せとは、「生きててよかった」と思える記憶の蓄積だ。大切にしてもらう、感謝される、人の役に立つ。といった、「嗚呼、自分はここにいていいんだなぁ~」と思う回数が多ければ多いほど、人々は幸せを感じる。

誰かに大切にしてもらうには、「この人(私)を大切にしたい」という思いを抱いてもらう必要がある。そして、そうなるためには先にその誰かに「この人(私)に自分が大切にされた」経験をしてもらわなければならない。だからまずは自分が人を大切にする。自分が人に「生きててよかった」という思いを差し上げるから、同じものを人から受け取ることができる。

ところが、お金に執着する人は、お金を守ることに必死なので、人を大切にしない。すると[大切にするーされる]の関係を結べる心優しい人は去って行き、代わりに金に目がくらんだ人ばかりやってくる。そういうやつらにおだてられ「オレは大切に思われてる。無くてはならない存在なんだ」とかりそめの幸せを噛みしめる。ただし本物ではない。そのことに気づくのはお金に見放されたとき。引き潮のように人が去って行く。そのときになってはじめて、人は自分に引き寄せられていたのではなく、お金に引き寄せられていたんだと気がつく。

もちろん終生お金に恵まれる人もいるだろう。だが人生後半になればなるほど、物欲よりも大切に思われることへの執着が増す。より本物の幸せを手に入れたいと願うようになるのだ。
それは、お金で出来ることの限界を見た人の、ある意味悟りなのだと思う。

本当は皆、幸せの正体が何か知ってる

「自分が亡くなった時、何人が涙を流してくれるだろう?」、人々は想像する。ようするに、どれだけの人が自分に世話になったと恩義を感じ、自分がいなくなったことを心から寂しいと思ってくれるかが気になるのだ。香典にいくらもってきてくれるのか、を気にする人は一人もいない。

それだけ人は最期に「大切に思われる」ことにこだわる。みんな本能では幸せとは何かを分かっている。だから守銭奴の最期は、すべからく不幸と言えよう。銭にどんだけこだわっても、「大切に思われる」ことはないんだから。

でも、元を辿れば守銭奴が銭にこだわるようになったのは、身近な人からひどく裏切りを受けて、人間を信じることができなくなったから。裏切りにあったときの深手がいつまでも心に居座っていたんだろう。
かわいそうである。

そういう人ほど、いい出会いをして欲しい。誰と出会うかで幸せが決まることもある。今までの自分は「大切なのは銭」と思っていたのが、「そうじゃない」と思わせてくれる人との出会いが、真の幸せにつながる新たな価値観をもたらしてくれることだってある。

松居さんにもそういう出会いをして欲しいものである。