「死にたい、消えてしまいたい」は何を物語るのか

たまたま深夜に人が集まる掲示板を見ていたら
「死にたい、消えてしまいたい」という人を数人見かけた。

私もお馴染みのこの感情。なぜ押し寄せてくるんだろう。そして何を訴えたいんだろう。

「死にたい」っていうから死ぬんじゃない

「死にたい」という人が、心から死にたいと思ってるか、といえば、それはない。
「死にたいくらい、(心に)支えがない」と言っているのである。

生まれたときから、受容されず、疎まれたり、搾取されたりすれば、誰だって、「自分はなんのために生きてるの?」ってなる。

私が生きてる理由を証明して欲しくて、無理に人の役に立とうと我を殺したり、依存したりする。当然ながらそのような行為は不健全であり、己を蝕む。何度も何度もそういうことが重なって、思わず口からでるのが、くだんの言葉。

「死にたい」は期待?!

彼らが求めるのは、温かく自分を迎え入れてくれる存在。(理想の)母のように朗らかで、大きく、この上なく安心できる相手。ずっと一人でいて、誰にも心を許すことができず、突っ張って突っ張ってなんとか、生の淵に立ってる自分に「寄っかかっていいんだよ」と声をかけて欲しい。

最果てのない一人の世界を抜け出して、誰かとともに生きる世界へ飛び立ちたい。そう願う心が「死にたい」。つまり悲しみが生み出した希望の光。

現世があまりに辛すぎるがゆえの、来世への期待なのかもしれない。

あなたの子供時代

子がこの世に産み落とされて、生きるために必要なのは、衣食住、そして「愛」。
「愛」とは、受容。

コップを落として割ってしまった私を「ケガしなかった?」と優しく気遣う声。「どうして割れたか分かる?」と考えを促す信頼。「今度はどうしようか?」と同じ間違いをさせない配慮。
そういう悲しい出来事に対処する術が与えられること。それが「受容」。
受け止めだけじゃない、生きる能力をも同時に授けてくれる。

これから人生で起こるであろうピンチを乗り越えるために必要な考える力を優しく指導してくれるから、僕は強く・賢くなれる。

でも実際は…
「なんで、割ったの!」という怒鳴り声。「さっさと片付けなさい」という命令。「あー、本当にやになる」という嘆き。言われた僕は、「お母さんの足手まといになってる。消えたい」って思う。

子供の時から始まっている消えたい思い。それは何年も変わることなく、心に居続ける。
だが、その存在を生み出したのは自身ではなく親。そしてさいなまれるのは僕。

あなたの求めるものはこうやって得よ

だが、残念なことに「受容」は大人になってから得にくい。だいたいの人が「受容」とは遠い世界で暮らしている。だから「受容」の与え方を知らない。ただ「なんでも自己責任」と声高に叫んで、出来ない人を責める。

だったら強く・賢くなれなかった僕に居場所はないの?
…残念ながら、ない。運がよければ「受容」してくれる人に出会えるかもしれないが、そんなの稀。世は冷たい。

だから同じ思いを抱いた者としていいたい。
「学べ」

「受容」のさまざまな形を学べ。
与えられることを望むより、自らつかみにいけ。
僕を受容してくれる存在には出会えなくとも、他人を受容しているところへ近づけ。

そうすれば、親から受けた扱いの理不尽さに気づけると同時に、本来人と人はどうあるべきかが見えてくる。受容のそばに身を置くと、伝染して自分も受容されてるかのように思える。
文学に、心理学に、哲学に、物理に、化学に学べ。

そして言葉を作る担い手になれ。自分のために、相手のために、言葉というツールを操れる人になれ。
そうすれば、幾分かは強くなれる。間違った人間関係とさよならできる。

くだんの思いは、受容への強い希求から来るもの。けど
あなたが求めるべきは、「学び、力をつけること」。手始めにこのブログの「本」のカテゴリーから読んでみて欲しい。