「死にたい」と思ってはいけないのか?

一般的に「死にたい」などと口にすれば、即座に「そんなこと考えるな」とダメ出しを食らう。でも、その瞬間こそが、「あ、死にたいとすらおもっちゃいけないんだ」という底なしの絶望へとつながる。

思うことくらい自由にさせてくれ、(時と場合によるけど)言うことくらい許してくれ。本当に死にたいのだから。

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死を否定するから死にたくなる

「死にたい」を聞いた人のどれだけが、言った人の気持ちを汲み取ろうとしているのであろうか。99%の人が、聞いたそばから自分の意見に囚われて、「死にたい」に寄り添ってくれないーそのことが、より深く死にたい気持ちを強める。

そもそも人は自殺するようには出来ていない。よほど特殊なことが積み重なって「死にたい」のだ。その特殊事情に耳を傾けることなく、自殺はダメという規範で、止めに入る。それは、一つは目の前の人に本気で死んで欲しくない、という思いからだろう。でももう一つは、自分が止めなかったら死んじゃったという事実を作りたくないからだ。

「死にたい?それなら死んでもいいよ」というのは、超人的な勇気のある人しか言えない。

ならば「死ぬな!」というのが正解なのか?

違うと思う。問題は死にたくなるほど追い詰められた理由だ。その理由を聞くだけでも、わずかながら相手を死から遠ざけることが出来る。そして、分かってくれる人の登場により、死を思いとどまろうという気持ちを持たせられる。

死は否定されるからこそ加速する。死を死として、ではなく死にたくなる気持ち、として受け止めてみるとまた違った風景が広がっていくのではないだろうか。

選択肢の狭さが人を死に追いやる

稼ぐ方法を一つしかもたない人が、職を失うと、その瞬間経済的に抹殺されたと思い詰める。けれども、稼ぐ方法を三つ持っている人が、一つ職を失ったとて、そう悩むことはない。

要するに一つしか無い選択肢に縛られているから、その先が暗闇としか思えない。

生きてて健康であれば、いや健康でなくても、生きる方法は無数にある。ただそれらはマジョリティーとは言いがたいし、お手本がいるわけでもない。手探りのまま自問自答しながら見つけていく。

生まれてからずっと敷かれたレールの上を走ってきた者は、自問自答の仕方をしらない。だから他者の力を借りて、考える力を身につける。自分の狭い思考枠を意識し、その枠の外に新しい発見があるという喜びを見つけていく。

けして順当に行くわけではない。けれどその紆余曲折差でさえ、「生きてる!」という感覚に繋がるのならば、どんな苦労も肉体を滅ぼすよりマシであろう。死にたい人ほど、考えよ、そう私はいいたい。

時に「死にたい」に浸るも大事

なんて前向きに言ってみたものの、スグに切り替えられるほど、みんな器用ではない。なので、休息も兼ねて、「死にたいなぁ~」に浸ることをオススメする。

要は「死にたい」という気持ちを自らが肯定するのだ。自分以外の人が順風に見えて、自分だけが運に見放されてる、と感じたとき、だれもが一度は「死にたい」と思うものだし、そういう人生の波こそが、考えのバリエーションを拡げる。

表ばかりを歩いた人に裏路地の魅力が分からないように、成功ばかりで積み重ねた人に失敗がもたらす経験の貴重さを説くことはできない。何事も、マイナー路線ほど、人間らしさがにじみ出ているし、なんならあからさまに言った方が、「私も、そんなとこある」といった共感を呼び込みやすいのである。

性別の問題で、男性です、女性です、で分けられなくなって、第三の性ですという考えが浸透してきたように、「生きます」「子孫を残します」「死にたいです」といった、なんじゃらホイというあり方も認められていって欲しい。

案外「死」にこそ産業的需要があって、政府が声高々に言ってる「生産性」が関与しているかもしれない。自分に嘘をついてカラ元気を振る舞ってる人の方が、精神的に辛いし、長いことかかって落ちていくのは目に見えている。

もっと現実を見て、「死にたい!」と言える環境、そして「死にたい」という人を聞ける人が身近に増えていって欲しいと思う。いのちの電話(インフラ)だけでは、きっと足りないと思うから。