死にたい人の死をじゃましない勇気

一般的に死のうとする人に「じゃあ、死ねば」と声をかけることはない。たいがい「死ぬなよー」と反対のことを言う。

しかしだ、勉強したがらない子供に勉強しろといって勉学に取り組むことがないように、死にたい人に死ぬなといったら、そのあとハッピーになるかというとかなりの確率で、そうはならないだろう。機を見てまたトライすることもあるかもしれない。

死にたい気持ちを否定しない

人は自分の思いを誰かに否定されるのがキラいだ。たとえそれが破滅的行動であったとしても。
そもそも破滅的行動には、それ相応の理由がある。生まれてすぐの赤ちゃんが必死に生きようとするように、人は生命を守ろうとする方向へ生きるのが自然だ。その自然さを打ち破って自らを危機に陥れるには、よほどの理由があるに違いない。

その、「よほどの理由」をガン無視して「死ぬなよー」というのは無責任じゃないか?せめて「よほどの理由」に目を向けてやらなきゃ。

死にたいと思いつめるほどの思いってなんだろう?

おそらく分かってくれる人の不在だと思う。たった一人でも分かってくれる人がいるなら、その人のために、人は生きようとする。その位、人は分かられることで生きる勇気を手にする。

だとしたらなおさら「死ぬなよー」と死にたい気持ちを阻止し、最期の最後まで分かってくれる人の不在を胸に刻みつけるのは、酷ではないだろうか。
本当に死を止めたいのなら、自分が相手の最期の分かってくれる人になること。

つまり死にたい気持ちを認めていく。すると「誰もオレのことなんて分かっちゃくれない」という自暴自棄さにブレーキがかかる。いままで死ぬ気100%だったのが、80%位になる。ゼロにはならないまでも、少し減って、少しとどまろうとする。

死ぬ人だって死んだらオシマイであることは十分に分かっている。減った20%に賭ける気持ちもなくはない。そこが対話のスタートなんだ。

あなたの勇気が試される時

「死にたいなら死んでいい。」と言葉にするのはとても勇気がいる。でもそこからしか道は開けない。感情を肯定し、事情を把握し、一歩一歩味方に近づいていくことができれば、いつの間にか死を望む気持ちは薄れていく。

無理になにかをひん曲げようとせず、あるものをただ受け入れ、それをどう解釈するかを共に考えていくことが真の自殺予防につながるのではないだろうか。