友達がいなかった親ほど子どもの友達を気にする

親から聞かれて嫌なことの一つに、「もう、お友達できたの?」がある。
入学、クラス替えなどで新しい人間関係に放り込まれると、子どもたちは一から友人関係を作り上げなくてはならない。そのプレッシャーだけでもかなりのものなのに、新学期が始まって一ヶ月もしないうちに、親に友達は出来たかの報告を求められる。

たいへん、酷である。

その一方で、我が子に友達ができようができまいが、おかまいなし、という親がいる。楽しそうに学校へいってればヨシ。子どもの人間関係にまで口を挟まない。そういう態度は、子どもにとって地味にありがたい。信頼されてるようで嬉しい。

子どもだって一人の人間。つきあいぐらい好きにさせてくれ、と思うだろう。
さて、この子どもの友だちづきあいにまで口をだす親、今日はその心理について考えてみたい。

子どもに任せることのできない親とは?

24時間面倒をみなければいけない3歳児ならいざしらず、小学生以上の子どもは、自分の判断で動き回り、人と関わる力くらいは持っている。だから親は黙って見守れば良い。
ところが、いくつになっても(それこそ40歳越えても)子どものことが気になって仕方のない親がいる。

そういう親に「なぜ子どものことに口を挟むのか?」を尋ねると、「親なんだから子どもの心配をして何が悪い!」とキレ気味に返してくる。まるで、我が子が何も出来ない非力な人間みたいだ。
非力だから親がいつも手を貸してやる、そのために常時子どもを心配する。それが親の努めらしい。

しかしホンネは違う。
己がいい人間関係を築けなかったから、それが我が子に遺伝して人間関係の構築に失敗していないか、気になってしょうがない。子どもを通じて、若かりし頃の自分の人間関係の躓きを見せつけられるのが怖いから、子どもの人間関係を確かめざるを得ない。心配なのは、子どもの人間関係ではなく、己の失敗の再来。
苦々しい思いを二度としたくなくて、子どもに人間関係の成功を迫る。

人が何かを執拗に求めるとき。それは抱えた痛みへの強い回避が目的。
誰かのため、なんかじゃない。

困惑する子ども

そんなことを知るよしもない子どもは、「気持ち悪いこと訊くなぁ」と思いつつも、逆らうこともできず、素直に○○だという。ここで親の想像より貧弱な人間関係だった場合、マウンティングが始まる。

「私が学生のときは3人くらい仲のいい子がいたものよ。いまでもおつきあいのある~さん、~さんが、そう。一生の友達は学生時代に出来るものよ。頑張りなさい」と、これまた自己を正当化するエビデンスを並べ立てて、我が子をディスる。
なにゆえ、自己正当化?

本来であれば、子どもの人間関係を豊かにするためのアドバイスをするところ、我が子のありのままを受けとめることのできない親は、子どもを潰しにかかる。そうでもしないと、表面上のつきあいしかなくて友達扱いされてなかった過去の自分が明かされてしまうから。
友達がいて当たり前という理想に身を置きたい親にとって、友達の少ない子どもという脅威は何が何でも潰されねばならない対象となる。

だが、子どもにとってはいい迷惑。
人付き合いの好きな子、そうでない子、いろいろいる。偉人と呼ばれる人の中には、ほとんど人付き合いなく一生を終えた者もいる。それでもなお、遺された作品は愛され続けている。

一概に「人に好かれたから、価値がある人生」とは言えない。

子どもよ、賢くなれ

なので、友達はいてもいなくてもOK。

むしろ親の価値観に合わせようと、無理に友達のフリをしている子の方が異常。だいたいそういう子は、グループで行動しているようにみえて、ぱしりをやらされてる。一人だけ便利係。それでも親の求める「友達のいる子ども」を演じるために、甘んじてその役を引き受けている。

嫌でもその役を受け入れてると、知らず知らずに習い性になって、死ぬまでそこから抜け出せなくなる。30越えて辛くなったからって、簡単にその役を辞められない。

ゆえに、親の理想に乗じなくてもいいと割り切ることをお勧めする。親は子のためではなく、己の弱さのために子どもを使おうとしている、と理解しよう。
友達がいないのか、と訊いてくる親ほど、心を許しあえる友はいない。上辺ではつきあいに長けた親に見えるかもしれないが、実はそうではない。内心は友達いないコンプレックスで埋め尽くされている。
だから、子どもに訊くんだ。

人は手に入ったものはさっさと忘れ、手に入らないものにしがみつく。訊くということは未だそれにしがみついてる証拠。親のコンプレックスなんで、子どもは知らんでよろし。自分の進みたいようにすればいい。