「また誘ってね」
「あなたから誘ってね」
と言われて、心底辟易していませんか。
本心は「知らないよ。誘いたきゃオマエが誘えよ」ですよね。ただ面と向かっては言えない。こんなとき相手はどう考えているのか分かると、次の手が打ちやすくなりますよ。
「誘ってね」をリクエストする人は、何を考えているのでしょう。
誘ってほしい人の考えてること
誘ってほしい人にとっての優先事項は、誰かとどこかに出かけることではなく、[自分が]声を掛けられることです。声を掛けられるという事象がなによりも大切。
声を掛けられることで、誰かに思われてることを証明できる。そう、人気者の自分でいたいのです。
でも考えてみてください。本当の人気者は、声を掛けられることにこだわるでしょうか。
こだわりませんね。たぶん、どうでもいい。
人気者を気取りたい人が、やたらと声を掛けられることを望んでいるのです。
その考えに、違和感を抱きませんか。心の歪みを感じるのです。
「誘ってね」は強要
よくよく考えると「誘ってね」というのは、「誘えよ」という強要です。アンタの意向はどうでもいいから、なにがなんでも誘えよ、という強要。
こちらへの想いとか、まったくナシ。
そんな人を人とも思わない行動は、とうてい受け入れられません。
心が素直でまっすぐならば、これは相手を不愉快にするな、と思って強要は控えるもの。
ヘンに歪んでいるから、相手の気持ちを推し量れなくなる。
本来なら作動するはずの、「言われた側はどう思うのか」に思いが至っていません。
同時に自分がどれだけ厚かましいことを言っているのかに気づくこともできていない。
二重の意味で、ヤバいです。
そんなヤバさの原因は、人気者になれなかった過去の恨みにあります。
話を聞いてもらいたかった、注目を集めたかった。けれどそれがままならなかった。
という経験が、心の中に「なんとしても、人に気に掛けてもらわねば」という思いを大きく膨らませていきました。
しつこく「誘ってね」という強要は、過去に望んでも叶えられなかった後悔の残骸です。
「誘ってほしい」は鬱状態の危険あり
ミュンヒハウゼン症候群という精神病を知っていますか。
この病気の人は、自分を傷つけ、命を危険に晒しても、親切にされること、気に掛けられることを強く望みます。自ら血を抜いて、貧血を装い、病院で手当を受けて看護師さんに優しくしてもらうことに価値を見いだす。
傍目から見れば、健康を害してまで優しくしてもらうなんて、どうかしている、と思うのですが、当人はいたって真剣に優しくされることを崇拝している。
この症状と「誘ってほしい」と強要する人は、とても似ています。どちらも、周りから気に掛けてもらいたいという欲が突出している。違うのは、ミュンヒハウゼン症候群は命が危険にさらされるので治療が必要なのに対し、「誘ってほしい」は、健康被害がないので治療対象にならない、というだけ。
けれども「誘ってほしい」という人は、遠からず精神的バランスを崩すように思えてなりません。みんなが強要に応じなくなれば、だれも誘ってくれない状態が続き、ついには「自分は要らないにんげん…」と思い込み、鬱状態に陥ってしまうからです。
自立した人間は、「自分が要るにんげんかどうかは自分が決めればいい」と解っています。しかし「誘って欲しい」人は、あくまで自分は思われることで成り立っているので、思われない事態が継続すると、もろくもアイデンティティーが崩れ落ちるのです。
そういう意味ではガラスのハートと言えましょう。ですが、同情には値しません。治療こそ必要とはしませんが、なんらかの心の歪みを治す手を、自ら打つ必要はあるのですから。
「誘ってほしい」のかわし方
ということで、「誘ってほしい」のえじきになるのは、金輪際ストップ!
心の歪みを生み出した原因は、アナタと出会う以前にあるのですから。
流すなら、「忙しいから、またね。」「いつか都合がつけば。」
毎度言われるのが嫌なら、「私は誘うのが苦手なので、誘うのが得意な人を当たって!」「他に誘ってくれる人いるでしょ。そっちへ行きなよ。」
しつこいようなら、「それって、誘えって強要してるの?怖いよ。」
といって、話を合わせるのはやめましょう。
中途半端に受け入れるから、本人が見直す機会を失うのです。問題を先送りにするか、しんどいけどその問題に向かわせるか。どちらが本当の意味で相手を思いやる行為か、考えてみてください。
甘えてきたんだからいいじゃない!と思うかも知れませんが、相手もいい大人です。誘いたければ、自分から誘う、これが基本です。