20年前私が彼をふった理由

若い頃は誰もが直情的で、ふったり、ふられたりします。若かりし頃は、それこそつきあった長さが1日というのも珍しくありません。そして私も、たった半年である男性をふってしまったのです。

なんとなく嫌だから、合わないからというフィーリングで別れたのですが、それから20年経ち、再び交流するようになって、フィーリングから確信へと変わりました。

昔は分からなかったなんとなくの感じ、やっと掴むことができました。

別れたときの気持ち

元彼Aくんはとてもキレ者で、教授からも一目置かれるスーパー頭脳の持ち主でした。就職したのは、大手電機メーカー。そこの材料部門に配属となり、日夜研究に励むとともに、毎週2時間かけて会いに来てくれていました。

大型の連休ともなれば、避暑地へ旅行、欲しいものは全部買ってくれました。頭が良いし、優しいし、なにより私を思ってくれてる。こんなにいい人はいない。私は二人の未来を信じて疑いませんでした。

けれどもしばらくして、なんともいえぬ虚しさを覚えるようになったのです。大事にしてくれてるんだけど、本当は大事にされてない、話が盛りあがってるようで、本当は盛りあがっていない、相反する気持ちが錯綜して、どうしていいか分からなくなりました。

それからというもの、わずかに気に入らないことでもイライラし、意地悪な気持ちが勝ってしまって…、こんなんじゃダメだと悩んだ末に、お別れをいいました。そのときの気持ちは、なぜか清々しかった。悲しくもなきゃ、残念とも思わない。厄払いしてスッキリした!という気分だったのです。

20年後に明らかになった理由

あんなにも大切にしてくれていたのに、なぜAくんと離れてスッキリした!んでしょう?ずっと疑問でした。それが20年後に交わした言葉で明らかになっていったのです。

たとえば私がメールで、「お元気ですか?○○って気になるって言ってたので、URLのリンク送りますね」と出すと、「ありがとうございます。○○と言えば、△△で…」と返ってくる。最初はさしたるひっかかりも感じませんでした。

ところが何度やりとりしても、返ってくるのは、自分ことだけ。挨拶以外全部自分のことなんです。私が話題を振って、彼は好き勝手しゃべる、という一方通行な会話。

それに気づいたとき、だからあの時虚しかったんだ、とはっきり意識できました。話しても、話しても、一向に受け取ってもらえず、まるで一人でいるみたい。大切に思ってくれてるといっても、それは「ボクの愛でるKOMAちゃんLOVE」なだけ。目の前にいる私は完全に無視されていたのです。

私が一番生気を失うとき、それは彼といるとき、でした。だから別れた瞬間、本来の自分に戻れたと感じて、清々しく思えたんですね。

結婚できるかできないかの差

彼はずっと独身です。婚活市場ではもてはやされる要素を十分に兼ね備えています。彼も結婚したいと思っている、けど、できない。

それは目の前にいる相手を無視するからです。みな口をそろえて「温かい家庭をを作りたい」といいますが、自分を無視する人と一緒にいてもそれが叶うはずもありません。

誰かが思ってくれるから心が温まる、誰かに(ややこしい)自分の意思を尊重してもらえるから心がじんわりするのです。

お付き合いの段階で、それが感じられないのであれば、Aさんの彼女さんは私と同じ絶望に見舞われるでしょう。だから彼はふられるのです。一緒にいたいと思われないのです。

結婚できない人のほとんどは、この「目の前の人をみていない」ことが原因だと思います。理想ばかりを述べる人、不満ばかりを吐き出す人、は、「今この瞬間、目の前にいる人をみていない」んです。

私は、「頭の良さや財力、容姿が恵まれても、幸せな結婚が出来る」とは思っていません。現に全部持っている人が悲惨な形で離婚していくのを何度も見てきました。持ってるものの多さは、魅了するきっかけにはなっても、継続には繋がらないんですね。

そう思うと、いろいろ持ってるAさんと別れるという決断を、たった半年で下した私の判断は間違ってはいなかった、と思います。なんとなく嫌だからも、あとあと考えればそれなりの理由があってのことなんだと思います。

ただ言葉にするのには、経験が必要ですね。20年という月日を掛けて、やっとふった理由を言葉にすることが出来ました。