「ポジティブ」とはどういうことなのか?

あの人はポジティブだ。
ポジティブ思考だよね。

ポジティブという言葉は広く受け入れられています。

一方で

なんであんなにポジティブでいられるんだ?
いいよね~、ポジティブで(嘲笑)。

否定的に捉えられてるところもあります。

では、見方次第で、受け入れられたり否定されたりする「ポジティブ」とは一体なんなのでしょう?
ただの楽観主義?明るく見せるための手法?

いやいや、そんなんじゃないんです。みんなが思ってるものとは違うんです。

ネガティブな日本人

日本人のほとんどは、物事を悲観的に捉える傾向にあります。だから素のままは、ネガティブです。

人と違ったことをすると、後ろ指さされるかもしれない。一人だけ突出すると悪目立ちして、出る杭が打たれるかもしれない。周りを注意深くみて、「私オカシクないよね?」と怯えながら暮らす毎日。

やる/やらないのすべては、「周りにどう思われるか」に合わせるため、判断の基準は己の外に置かれます。

すると、どうなるか。

言うことがコロコロ変わります。

Aさんに相談したら「それはやるべきだ」と言った、Bさんに相談したら「それはやるべきではない」と言った、Cさんに相談したら「どっちでもいい」と言った、という場合、Aさんの話を聞いた直後は「やる」といい、Bさんの話を聞いた直後は「やるかどうか迷ってる」となり、Cさんの話を聞いた直後は、「考えあぐねている」、と答えてしまう。どうにもこうにも意見が定まらず、相談した人の意見に引っ張られてしまっている。

こんなんじゃ、誰の信用も得られません。そのことが余計自信を失わさせ、ネガティブな性質を加速させます。

ポジティブとはなにか

そこに対抗したのが、判断の基準を己の中に置く考え方。己の外にあったものを、己の中に持ち込みましょう、という考えです。

「自分がいい、と思ったものは、いい」、という揺るぎない価値基準は、考えに筋を通し、明瞭さと清々しさをもたらします。周りからの信用も得られやすいでしょう。

「自分がいいと思うものは、いい」という考えは、いいと思うという「感情」の存在の肯定です。この「感情」の存在の肯定というのがミソで、ポジティブは受け入れられもすれば、否定されもすると文頭に言いましたが、「感情」だけは、問答無用で存在してOKです。

そしてこの肯定が、「ポジティブ」の正体です。物事を良く捉えるか、悪く捉えるかといったジャッジではなく、「感情」があるということを肯定することそのものが「ポジティブ」ということです。

ポジティブな対応をする

悲壮感でいっぱいなときに、無理に明るく振る舞うのはポジティブではありません。ポジティブであれば、その悲壮感をきちんと表出できるのです。

誰かが「ほら、暗くなっちゃうからそういう顔やめてよ」と言ってきたとしても、「あなたは暗い顔を見たくないんだね。私は今暗い顔しかできないから、離れるわ。」と素直な気持ちを言葉にできる。自らの「感情」を肯定できるのがポジティブです。

そして「感情」を肯定できるがゆえに、ポジティブな人はピンチに強い。「感情」を肯定することで心を落ち着かせ、問題解決へと目を向けられるからです。余計なところで感情に絡み取られていない分、スムーズに結果が出せるんですね。

その「結果を生む有効性」が、ポジティブな方がいい、というイメージを生んだのでしょう。でも、元はといえば、「感情」の肯定から始まっています。それは言い換えるならば、自分にたいする「尊重」です。

「尊重」はとてつもないエネルギーを生みます。大事に思ってくれてる人がいると思うと、枯れることなくエネルギーが湧き出てきます。

無理はしない、自然のままに

人間、ありもしないところから、何かを生み出すことは出来ません。でも存在する「感情」の中から、何かを生み出すことならできる。

みんな、無理をしすぎなんじゃないでしょうか。ありもしないところから、さもあるように見つけたフリをしていはしないでしょうか。

無理はいけません。ある ものを あるがまま に拾う。それが、然とした生き方であり、しなやかさであります。

ポジティブとはそういう、あるを拾い続ける「あり方」なのだと思います。
相田みつをさんや、星野富弘さんのように。

相田みつを
にんげんだもの

星野富弘
いのちより大切なもの (Forest books)