対話の経験がないから、全てを雑に扱う

対話とは相手の話を丁寧に聴き、必要に応じて返すこと。
話の最初に相手の言わんとしていることを受け取り、自分の中でよく解釈して
相手に伝わるように話す。すると相手は返ってきた内容にまた自分の考えを重ねて
話をする。

対話のどの工程においても、手を抜くことはできない。そうじゃないと対話ではなく
ただのモノローグ大会になってしまう。

小さいときから相手(親)に丁寧に話を聴いてもらう経験が有れば、人と交わるとは
こういうものだというモデルが心の中にでき、以後どの人と話をするときも対話スタイルで接するようになる。
一方モノローグ大会の中で育てば、「あっ、なんか誰かがいってる。一応反応
しておくか。」くらいの雑な考えしか持てず、相手と信頼を築くには至らない。

小さいときの主な仕事は遊ぶことと学ぶこと。

そのうち学ぶことの一つである対話を経験しなければ、全ての人・事・事象に対し
考えることをしなくなる(雑になるとは考えないこと)。

雑に扱ったところで、いじめられるわけでもなく、おどされるわけでもないから
特に問題が露呈することなく成長する。
そうやって大人になった人がわんさかいる。

ジャーナリストの人が、考えることのできない社員が全体の8割と言っていた。
その8割は間違いなく対話の機会を持てずに成長しちゃった人たちだ。

その人達は元気で社会生活を送っているときには、それなりに成果を生むから
社会から必要とされ、生活に不便は感じないだろう。
けど、老人になって成果物という形では社会に貢献しなくなったとき、どうなるんだろう?

老年こそ人生の集大成の時期だと思う。
どう生きて、対話して、関係を築いてきたか 問われるのだ。

今からでも遅くない。対話ってなんなのか勉強した方が、楽しい未来が待っている。

対話に興味のある方、クリックいただけると嬉しいです。by KOMA

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