することの豊かさ、してあげることの貧しさ

ことあるごとに「~してあげた」と声にする人がいる。
本人は、自分の労力を割いてワザワザしてあげたと思っているようだが
受け取った人は恩を着せられるほどの物でもないと思っていたり、迷惑だと
思っていることも多々ある。

するという自発的行為は、なにか見返りを求める行動と違う。

自分がしたいから、した。
実にスッキリとした行為と言葉だ。
結果を期待するわけでもなく、ただ自分のしたいという気持ちに従っただけ。
自然な人間の有り様。

一方、してあげたという受け身的行為は、やりたくない己を裏切ってまで、相手
のために、良かれと思って行動したという意味を含む。
自分がしたくないのに、した。他者にへつらった行為と言葉だ。
したくない心に逆らって、我慢して、期待した効果が返ってこない。
不自然な人間の有り様。

私はしてあげたという言葉を使う人は大嫌いだ。
仮にこちらが依頼したとしても、それを承諾したのは承諾側の責任。
もし対価が受け取りたいなら、その場で交換条件をいえばいい。
自分が交渉もせずに、全部他人が悪い・私は被害者だと言わんがばかりに
してあげたを連発する人間など、信用するに足りない。

親が「育ててあげた」なんていうのは、もっともヘンな表現だ。
子供を産まなかったら育てる必要などない。
子供が欲しかったら、育てるのは義務。
自分が選択したことにたいし、責任を取るのが子供って思考、どーみてもオカシイ。

あげたを連発する人は、自分の心が満たせていない。
だから他者から感謝という言葉を受け取ったり、貢ぎ物をされることで、やっと他者
に必要とされていたんだと安心する。

それでも、自分の価値を計る術を他者に求めるって、ずいぶんと危険な行為です。

他者がいなくなったら、どうするの?他者の要求がもっと高くなって、与えられなく
なったら、どうするの?
他者に自分を満たして欲しいという欲望には際限がなく、他者が自分に求める欲望
も際限がない。
従って、みなさん地獄行き。
最悪、刺す・刺されるの事件にまで発展しかねない。

自立するとは、自分で自分を満たすことができることをいう。
あげたではなく、するという言葉を当たり前のように使える人を指す。
あげたと言葉に出してしまう人間は、確実に他者評価を求める依存型です。

自分の言葉を見直して、自分の心の貧しさに気付くことで、自分を満足させ
られる世界への第一歩を踏み出せるかも知れませんよ。