お茶は入るのか?

「お茶が入りましたよ~」
「ご飯が出来ましたよ~」

日本人なら、聞き慣れた言葉である。
しかし、私はこの言葉が引っかかる。

お茶は自動で出てくるわけではなく、ご飯は勝手に作られるのではない。

そこに、作った人がいるわけで、なのにそのつくった人が、自動的に出来たような
口調でいる。

過去の日本では、女性は慎ましやかにすることを求められた。
だから、わざわざお茶を入れてやったぞ!とかご飯を作ってやったぞ!のような
お仕着せ表現が嫌われ、先のような言葉使いが発達したのであろう。

が、現代はタダのものなどない。
女性は飯作りマシーンではない、ということは明白だ。
性別にかかわらず、尊重されるべき存在である。
にも関わらず、まだこの言葉使いが残っていることに違和感がある。

昭和の女性は、家事に育児に、介護に追われ、誰からも労られることなく
黙々と働いた。
きっと心の中は不平がたまっただろうに、それをぐっとこらえて、歯を食いしばり
乗り越えてきた。
その我慢が爆発したとき、離婚に発展する。

つまり歯を食いしばることも、我慢することも、心や身体にそった行為ではない
ことが証明されつつあるのだ。
従って、お茶は入れた人がいるのであり、ご飯は作ってくれた人の労力あってこそ
だと思ってもよいのではないかと思うのです。

どんな些細なことであっても、心遣いがあって、結果としてお茶が出てきたり
ご飯ができあがるわけです。
台所の果てない労に、報いの言葉がないという事実が女性を一番疲れさせる
のですといった有名な言葉が、なぜか心によぎります。