自分の回避性人格について深掘りしてみる

なにをするのも恐いと足のすくんでしまう自分を理解するために、自らの人格について
考えることにする。

私は何をするにしても、「どうせ失敗する」「自分には力がない」とすぐに悪い方向に

考えて、足がすくんでしまう。
また対人関係も傷つくことを恐れて深入りしない。
その割に人を求める傾向が強く、矛盾した心を抱えている。

こういう状態の人を回避性人格という。

人生で最初に記憶があるのは、幼稚園の時にブランコから飛び降りる遊びをしていた
ことだ。みんながブランコから飛び降りるのを見て羨ましく思い、やりたいと思ったにも
関わらず「自分は出来ないのではないか」「怪我するんじゃないか」という思いに囚われ
て、勢いよく飛ぶことが出来なかった。
いつも失敗前提で動いていたから、思い切りのよさは人100倍なかった。
いつもぐちぐち、ウジウジ系。←根暗である。

そんな私の人格を形作ったのは、両親が与えた環境だった。
第一子である私は両親の期待を一身に背負って、幼少の頃から英才教育を
受けていた。3歳で毎日ピアノを2時間練習するのである。
ピアノをやることは、強制であり、一日たりとも休むことは許されなかった。
そして幼稚園に入園するためのお受験。
とにかく頭の良い子、特技のある子としていることを要求された。

親は何事も出来て当然と考えていたので、日常で褒められること認められることは
皆無であり、彼らの価値感上人に自慢できるところがあるときだけ、褒められた。
友達をたくさん持つことを強迫的に求められ、「誰と仲が良いのか」「友達はいる
のか」何度も聞かれた。そして「近所の○○ちゃんと遊びなさい」と言われることも
あった。

これだけたたき上げられたので、小学校では頭の良い部類に入り、希望すれば
リーダになることもできた。
だが、私はいつも「自分なんかにそんな大役は務まらない」と萎縮し、みんなの
陰に隠れるように目立たない努力をした。
そして周りからの言葉を素直に取れない子になっていた。
一般に9-12歳はゴールデンエイジと言われ、何事を吸収するにも適した年齢なの
だそうな。担任の先生は、私たちの可能性について希望を持って説明してくれた。
その話を聞いた私は、「どうせ自分は大した人間にならないし、関係ない」と
切り捨てていた。
すでに私の中で回避性の人格は出来上がっていたのである。

”意に沿わない習い事、受験、親の望む子供像でいること”は、私の持つ本来の
生きる力を奪うには十分であった。
中学以降、私は消えてしまいそうになるを繰り返すようになった。
今もやや気持ちとしては引きこもりがちである。外の世界が恐いのだ。

私はとにかく逃げるクセが人よりも強い。
場面の良い所を見つけるより、悪い所を見つけることに長けている。
その結果、全てを否定的に捉え、逃げたい欲求にとりつかれ、放り投げてしまう。
辛抱強く、前向きに ができない。

これを修正するには、自分で自分を”認証”することである。
物事には、良い面と悪い面の両方があり、良い面をクローズアップすることで
自分を潰すことを防ぐ。
潰しまくっているから、ぺっちゃんこで逃げることしか頭に浮かばないのである。
潰す手を止めて、そっと救ってやれば、そのうちふっくらとしてくる。
ふっくらしたら、余裕があるから可能性を探ることも出来る。
世の中がフラットに見えるようになる。

夫に”認証”を求めた。しかし回避性人格者にはお似合いのシゾイド人格者が私
の夫だったので、”認証”がなんだか理解できない。
ぶつかりあい、罵りあい、それでも双方が理解できない。
とても苦しい状態だ。

でも、死ぬわけにいかんしなぁ。
そっと救う方法っていつ身につくでしょ?
考えてみます。