言葉の端々に込められる浄化されぬ思い

近所の人とちょっと話す機会があったので、相手の話を聞くともなしに聞いていた。
そこでちょっとひっかかったのが、たとえ私がご近所さんという離れた存在であっても、自分の抱えている不満はポロッと露呈されるということ。

即ち、人との交わりは自分の中の負の感情の浄化に使われているんじゃないか?と思った。

浄化して欲しい内容はなんのことはない、


 車を停止中後方から追突されたが、保険会社に勤めていた夫が相手の肩ばかりもって、被害者である私のことを心配し気に掛けてくれない。

 広い田畑を父親から譲り受けたが、平日は会社員をしているので忙しく、週末に稲作をしているが、時間が無くて自分の自由に過ごせない。


でもこういう小さな不満が積もり積もってストレスとなって心身に影響が出るのだから、ご近所さん相手であっても発散できるものは、発散しておけ!という考えなのだろう。

その昔は長老など話を聞いて判断をくれる人が村に一人はいたが、今はそのような存在もなく、ただただ生活の中で人々は摩耗していくだけ。だから息抜きできそうな相手が見つかれば、無意識に心の疲れを癒されるための言葉を吐き出すのだと思う。

本来であれば、そのような不満は家族が互いに請け負って、慰め合うものだと思うが、それも上手く機能していないので、外の世界に求めることになる。
なんだか社会全体が機能不全に陥っているのか?と錯覚してしまいそうな、日常の風景であった。