なぜ我々は人の不幸話を好んでしまうのか?

「人の不幸は蜜の味」

そう言われて、うんうん、と頷く人もいれば、そんな風に思わないよ!、という人もいる。けれど、大方は表面上、人の不幸は望まないとしながらも、心の奥底ではシメシメと思ってる。

でも別に責められることではない。むしろ自然中の自然といっていいだろう。

普通に生きていれば、人の不幸は養分になる。不幸話をきいて、「私は大丈夫」って思える。

でもそう思う理由を言えるだろうか。説明となると意外と難しい…。

不幸から得られる蜜の正体

人の不幸を耳にしたとき、まず最初に”あぁ、そうなんだ”という実態を把握する。そして”○○なんて、運がないわねぇ~”とか”自業自得なんじゃない”といった感想が湧きあがる。湧き出た瞬間、「お気の毒様」と思いつつも、本心ではこう思っている。

「この人より私の方がマシ」

私はこんなヒドい状況に置かれたりなんかしない。そうならないように気をつけてる。派手な遊びをしたり、怪しい投資をしたり、そんなハチャメチャな事はしない。

地味で堅実に生きる者の、いうなれば僻みみたいなものが、心という限定された空間の中でだけ湧き出る。普段自分に「我慢」をさせてる分、好き勝手にやってる人がしっぺ返しを食らうのが、爽快に感じるのだ。いうなれば我慢で溜まりに溜まったエネルギーの放出、といったところか。

蜜の正体は、人の不幸話をきかっけに溜まったエネルギーを放出できるという爽快感そのもの、である。

蜜を蜜として味わえる人、味わえない人

ならば、全員が全員、不幸話に群がるわけだが、そうでもない。数は少ないが、一定数不幸話にまったく影響を受けない人もいる。ようは蜜を蜜として味わえない人。

そういう人は、そもそも放出するためのエネルギーを持っていない。溜まってないものは出すことができないので、不幸話があろうとなかろうと、どうでもいい。むしろ、不幸話はその名の通り、誰かが「不幸」なわけだから、できれば聞きたくないし、そもそもそんな不幸起きなければいい、と思っている。

そんな彼らはよほど我慢に対する耐性が高く、エネルギーを溜め込まないのだろうか。

そうではない、彼らはそもそも「我慢」をしていないのだ。

我慢が我慢じゃなくなるとき

我慢がなければ、我慢からのエネルギーは生じない。では、我慢とはいかなるときに起こるか、といえば、自分の意を殺して、かくあるべしという姿に収まるときである。

  • 本当はケーキをたらふく食べたいけど、女性はスタイルが大事だから我慢する
  • 一日中遊んでいたいけど、将来、職に困らないように勉強する
  • 散らかし放題にしたいけど、お母さんに怒られるからお片付けする

こんな風に理性である「頭」が働いて、こうありたいが抑制されるとき「我慢」が起こる。本当は、こうありたい、は抑制されるべき対象ではないのだ。でもそういうと、自堕落になるのでは?と思う人もいるだろう。

大丈夫だ。自堕落というのは自分を堕として、落としている、すなわち最下層に位置づけるからそうなるのであって、自分を上げて、揚げれば、最上層にだって位置づけられる。「自分はこれができる。これに向いてる」と思えば、それを一生懸命やる。すると、それがとっても上手くなって、もっとやりたくなる。もっとやるために、例に挙げた、ケーキを食べるより運動する/遊ぶより学ぶ/散らかすより整理整頓する のであれば、もはやそれは苦行ではなく、目的達成の手段となりうる。

やりたいことがあれば、それに熱中する。その熱中が我慢を手段に変えてくれる。
すると、我慢から苦行の色が消える。ただのやるべきこととなる。

比較の中で生きることを手放す

そうなれば、苦行を通じて不満のエネルギーを溜めることもないので、人の不幸話をきっかけに「私の方がマシ」とは思わなくなる。ということで、私が上、相手が下、という格付けが行われない。

格付けがなくなると、相手の立場によって、自分が上がったり下がったりしないので、誰とでも気軽に付き合える。友達がある日、とんでもなく条件のいい人と結婚が決まっても、心から祝える。

これが我々の求める「性格が良い」じゃないだろうか。
つまり性格を良くしたけりゃ、こうありたいに忠実であればいい。

我々がついつい愚痴話に耳を傾けてしまう理由

人の不幸に関心があるうちは、まだまだこうありたいにほど遠い。こうありたいを実現するために頭をフル回転してないから、「私の方がマシ」になりたくて、人の不幸話をそば耳立ててる。

その延長として、人の愚痴を聞いてしまうこともある。
我々が愚痴に付き合うのは、心のどこかに”この人の不幸ってなにかしら”と蜜を求めたる気持ちや、”こんなに不幸じゃ可哀想。あー、私はそうじゃなくて良かった”と思いたい気持ちがあるからではないだろうか。

だから一度はその愚痴を聞ける。でも同じ話を二度されたら、全然蜜味はしないし、そうじゃなくて良かったとも思えないから、退屈極まりない。

そう指摘されると、どうだろう?愚痴話を聞く自分の中に、人の不幸を求める気持ちが透けて見える気がしない?

なぜ我々は人の不幸話を好むのか?

気の毒な顔を作って「可哀想」と口にするのは、同情なんかじゃない。むしろ蔑んでる。その人の不幸はその人に付属するのであって、他者が可哀想かどうかの判断を下すものではない。

下す時点で明らかに相手を下に見ている。ということは、自分を「判断する者」と上方に位置づけている。

そんなことができるのも、不幸話という機会が与えられてこそである。

すなわち、我々が人の不幸話を好むのは、自分が踏み上がれる絶好の機会が手にできるからである。しかし、こうありたいに忠実な人にとっては、無益でむしろ避け嫌うものである。