私の人生の目標は「寂しさから解放されること」

今までを振り返ると、いつも人に受け入れられること・愛されること]をを求めていたと思います。自分の気持ちを分かって欲しかった、話を聞こうとして欲しかった。そういう思いを抱きながら、40有余年生きてきました。

願っても願っても願っても、その思いを達することができないとき、人は願うことすら止めたいと思います。だからいつも思っていましたーこの世から消えて無くなりたいーと。

それはいうなれば、叶わぬ願いに絶望した人の最期に行き着く境地なのでしょう。

人生の始まりが、喜びと祝福に包まれていた人と違って、生まれ落ちたその日が搾取のスタートだったのです。そんな「道具」としての生き方を強いられた人は、自分を価値ある存在と思うことが出来ません。

ゴミ・ゴミ・ゴミ。そう自身に投げかけることしかできないのです。

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自分への呪いは人生の至る所に波及する

そんな自分をゴミと思ってしまう自己意識は、こと恋愛において顕著に表れます。

ちょっと優しくされたら、簡単にその人の元へとすり寄ってしまうのです。スティディーなポジションを約束されなくても、ゴミな自分を人間扱いしてくれたことがたまらなく嬉しいのです。たとえそれが偶然の産物であっても。

でも相手からしたら、ちょっと優しくしただけですり寄ってくる人なんて、真剣に付き合いたい相手ではありません。適当に「使って」適当なところで「ポイ」すればいいのです。

当然粗雑な扱いをうけたあげく、やはり「私は誰にも相手にされない人生なんだ」という思いを強くするのです。


就職においても同じような傾向がみられます。

就職活動を始めると、同じ学歴なのに、片方は面接を通過して、もう片方は通過しないということがあります。これは実力の差ではありません。

自分をデキる人間だと思っていれば、言葉の端々に余裕が生まれ面接官に「この子なら会社に貢献してくれそう」という思いを抱かせることができます。一方、自分をゴミだと思っている人間は、「私など(というゴミ)は到底そのようなことはできません」と下手に謙遜してしまい、面接官に「この子は弊社の役に立ってくれそうにない」と判断させてしまうのです。

かりに無事就職できたとしても、ライバル同士の競争は避けられませんから、謙遜しすぎの性格が災いしてプレゼン一つも負けが続き、自信を喪失して、「やっぱり私はゴミ」という思いを強めてしまうのです。


結婚はどうでしょう?

婚活市場に出て行ったとき、目を引くのはやはり見た目のいい人。ところが自分をゴミ扱いしている人は、「どうせ磨いたってたいしたレベルにはならない」とはなから諦め、素のまま勝負しようとします。
お見合いの場に、研究を重ねて美しく整えてきた相手と、丸腰でいつものままやってきた相手が、互角に戦えるわけありません。見た目の勝負は1秒以内に決まります。結果は目に見えているのです。


子育ては?
これもいろいろ心配なこと多いですね。他の子より成長が遅れたらどうしよう、自分の子だけ勉強ができなかったらどうしよう、人様に迷惑掛けたらどうしよう。

どんな親も最初は初心者です。けれども初めて親をやった割に器用にこなしてく人もいれば、どん詰まりになってしまう人もいる。この違いは「(ゴミのような)私の子だから、なにか失敗するに違いない」という思いが強過ぎるあまり、あれダメ、これダメとダメ出しばかりしてしまうことにあります。

本来すべての子が可能性を秘めてこの世に誕生します。その可能性を伸ばす前に、失敗を恐れる親がダメを前面張りしてしまうと、萎縮した子になってしまいます。そういう子はダメ出しされるのを恐れて、消極的になります。それが運動神経の発達を遅らせ、コミュニケーション能力の伸びを停滞させ、脳の情報処理能力を低下させます。となれば、あれもこれも平均以下ということになり、親はいっそう「この子はダメ」という思いを強くしていくのです。


つまり自分に対するイメージは、人生のあらゆる場面で、かなりクリティカルに効いてくるのです。

寂しさをどう扱えばいいのか

では、クリティカルに人生に効いてくる元となった「気持ちを分かって欲しかった」という願いを、私はどう扱えばよかったのでしょう。

残念ながらその答えを持ち合わせていません。でも糸口ならあります。ムロツヨシさんです。彼の生育歴は非常に複雑で、それこそ気持ちを分かってくれる人と求めるどころか、どうやって生き抜いたら良いかで精一杯だったと聞いています。

そんな彼は、今仲間に、お茶の間に愛される人物へと変貌を遂げています。なぜ、彼がそこまで愛されるのか。それは彼がとてつもなく面白くそして優しい奴だからです。

彼と一緒にいると、笑いと安堵が生まれます。どんなツラい状況の人も、なんとなく救われた感じがするのです。それは、彼が彼なりの愛で周りを優しく包んでいるから。

そんな彼は、誰かに優しくされた後で優しさを身につけたのでしょうか。それはないと思います。イケメンでもない、特別な才能もない、お金を持っているわけでもない彼は、つまはじきにされていたはずです。でも、そこで腐ることなく、どん底で見える何かを手にした。

それは「愛の本質」だと思います。与えられるから与えるのではなく、自らの中で愛を生み出して、自らを包み込み、その経験を以て、他者をも包み込む。その何もないところが生み出すことこそ、「愛の本質」だと捉えているのです。

私達日本人は無宗教で、神という存在に愛されているという実感は持てません。だから自己の中に愛を見いだす必要がある。けれど、そのやり方については、どこにも書いていない。親から自然と継承されなければ、一生それに触れることはありません。

けれどもどん底という経験が、愛の存在に気づかせてくれる。そして気づくためには、「あぁ、もう誰も助けてくれないのだな」という諦めがいるのだと思います。

愛とは心地よいものではありません。苦しみの境地にだけ生まれる究極の解脱なのです。いいかえると、天地が180度ひっくり返る価値転換なのです。白が黒になって、黒が白になって、もはや白とか黒とかの見分けが必要ないんじゃん!と思えることなのです。

今私は「寂しさ」にしがみついています。寂しいから、誰か愛を頂戴と天に向かって手を広げている。けれども、これは一方的な物の見方でしかありません。知らぬ者は、知っている者から与えられるべきという見方。

それは果たして正しいのでしょうか。いつまでも与えられて寂しさを手放すことが、人生の目標なのでしょうか。確かに私の人生の目標は「寂しさから解放されること」です。ですが、解放のされ方は、メシア(救世主)の登場ではないように思います。

人生を何に託すか

ムロツヨシ的にいくならば、私は一度苦しみの境地におとされる必要があります。「寂しさ」の意味をもう一度構築する過程を経て、新しい「寂しさ」と同居し、友として歩む方法を手にしたとき、白黒の見分けを付けなくていいという悟りに達したように、「寂しさ」という概念から解放されるのだと思います。

私とは何でしょう。私とは私なのです。誰から手を差し伸べられようとも、差し伸べられないでいようとも、私なのです。私が他の介入によって揺らぐこと、そのものが、間違っているのです。

学歴を持った私、配偶者を持った私、親のいる私、住むところのある私、友だちのいる私。そういうインデックスを全部取り払って、私は私だ!と言えるとき、そこに「寂しさ」はあるでしょうか。

私は、ないと思います。

周りの目を気にするから、私は「寂しい」と感じる。それを捨て去ったとき、私が私としてその場にいる、以外のすべての情報が消え去って、寂しさとサヨナラできるのだと思います。

ウェイトをどこに置くかでこんなにも「寂しさから解放される」の意味が変わるのならば、私は迷わず自分に重きを置きたい。一番信頼できる自分にすべてを託したいと心から思います。