美人と褒められるのはブスと貶されてるのと同じ

「美人さんやねぇ~」「ほんと、きれい」「美しい顔立ちだね」

と言われて気を悪くする人はいない、と思っていました。けれども、よくよく考えると微妙な気持ちです。

なぜなら、褒め言葉は貶し言葉でもあるからです。

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感情の渦に巻き込まれる自分

「美しい」と褒めるのは、美しいと感じたからです。では美しくなくなったらどうなるか。「美しくなくなった」と感じるでしょう。

そして醜くなったら?「ブス」と感じるでしょう。

投げかけられた言葉は、その時その人が感じたことであって、「美人」が褒めで、「ブス」が貶めと決まったわけじゃない。けれども、美人はいいことでブスはわることと学習してきたがゆえに、言葉一つで、気分が上がったり、下がったりします。

そして、言葉に揺さぶられないよう冷静でいることは難しいです。

やはり言葉の渦に飲まれてしまいます…。「ブス」と言われると特に。人間、自分の存在を否定されることほど、心が痛むことはありません。痛くて、痛くて、痛いのです。

だったらせめてもの盾として、印象を言ってきた人をプロファイリングしてみるのはどうでしょう。

相手の心を分析する

なぜ、その人は印象を口にしたのか。

それは、思ったから、と言ってしまえば、チャンチャンなんですけれども、「思うこと」と「口に出すこと」は、別です。かりに思ったとしても、なぜ口にしたのでしょう。

知性が足りないからです。言われた側がどう感じるかを考えられていない。相手の立場に立てていないのです。そんな自己中心的で子供じみたものの考え方をする人の言葉、聞くだけの価値があるとは思えません。

だから言葉の渦に飲まれる前に、印象を言ってきた人の信用度を推し量るのがよいかと思います。信用度が高いなら、自らの血肉として役立てればいい、けれども信用度が低いなら、「自分勝手なこと、言ってらぁ」と聞き流しましょう。

人間に軽重はない、と言いますが、やはり信用のある人の言葉は重く、信用に値しない人の言葉は軽い。明確な区別をつけましょう。

褒めるなら目に見えないものを

見て感じることは誰でもできます。でも見通して見つけることは誰にでも出来ることではありません。

美人と褒めるなら、美しくあろうとする影の努力を、ブスと貶すなら、自分に構わなくなる心情背景を見つける。そういうあり方が人として求められてるように思います。

見つけてくれる人のいる世界には、「あぁ、見ててくれる人がいてありがたいなぁ」という感謝にあふれています。もちろん、「ブス」みたいな排他的要素もありません。関わる人、目撃する人全てが、温かい気持ちになれます。

「美人」も「ブス」も、「痩せた」も「太った」も、「金持ちになった」も「貧乏になった」も、見て分かることです。言葉としての価値はありません。むしろそういう言葉は警戒要素と捉えたほうがいいです。かりに未来、状態が悪化したら、ひどく貶されることが目に見えているのですから。

美人って言われた!と喜んでる場合ではないんですよ。ものごとの本質を見抜きましょうね。